「質問会」vol2そしてスタッフ募集

ごめんなさい( ;´Д`)

先日ご案内した「質問会」ですが、日時など変更になります。

6/11(土)→6/12(日)となります。

前回参加してくださった多くの方々がわざわざメールやお手紙を下さり、参加した意義があった

と私が思っていた以上の反響を下さいました。

なので、是非とも定期的にこのような機会を作っていきたいと思いました。

是非あなたも一度ご参加を!

と、それはさておき

毎週お店を手伝ってくれているスタッフの一人が自閉症のお子さんをお持ちのママさん

なのですが、先日あれこれと話をしている中でなんの話の流れだったか、例えば病院の待合など、

じっとしていなければならないような感じの場で、お子さんがそうもいかない行動を取ってしまう

場面というのがままあって、そういう時に周囲にいる方々から様々な非難や叱責を受けるという

経験をしてきたという話に。

それに対し「しょうがないんじゃない?」と私

しょうがないというのは、周りの人が必ずしも、というかおそらく大方の人が、そういう

障害を持っていると理解して彼を見てくれていたわけではないだろうから。

自分だってそういう場で騒いでる子を見たら多少は腹を立てたり注意したりするかも。

チラッと昨日電車の中の優先席で荷物を広げて座っていた男子を頭の片隅に思い出しながら。。。

彼女もそれはわかっていて、ある時からそういう心配がある場面では、周囲に彼が障害を

もっていると分かるようなプレートだか何かを付けてみるようにしたそう。

すると前述のような周囲からの非難のリアクションは減ったそうです。

聞けばそういう方法をとっているのは彼女に限らず障害児のママさんでは結構やっている

そう。

当事者の生の体験談を聞いてなるほどねぇ・・・

それだったら自分も注意したり腹立てたりせずに暖かい目で見守る事が出来るだろうと。

皆が必ずそうとは言えませんが、障害者や障害児に対する知識や理解が比較的ある方だと

思ってる自分なら。

と、しかし、ここでなんだかすこしだけ、すこーしだけ気持ちが悪くなった。

でも、この気持ち悪さは昼に食べたラーメンにニンニクを入れ過ぎたのが原因では無さそう。

相手に障害がある事を知れれば自分も含め周囲は寛容になれる。

それによって親御さんや本人が嫌な思いをしないで済む場面が増える。

いいじゃない!

めでたしめでたし。

なのか?

という気持ち悪さ。

その為には「この子は障害者です」というバッジを胸につけて周りにアピールしなければならない。

あとは、中身は一緒なのに相手に障害があると分かっただけで優しくなるだろう自分ってなんだ?

という気持ち悪さもちょっぴりあった。

ここで・・・

障害があっても無くてもみんなががもっと寛容な社会になればいいのでは?

という優等生チックな考えが浮かぶ

「障害があっても無くても・・・」よく聞くフレーズ。

先の彼女のお子さん、彼はマジェルカにも一緒に来てくれたので知ってるのですが

黙ってじっとしていたら(それができないのでお母さんご苦労ですが)見た目普通の男の子。

だから自閉症ゆえの周囲にお構いなしの行動をとった時に、障害があるとは気づかない周りの方

からは、おイタが過ぎる困ったちゃん に映る。

障害があると分かれば周囲は(私も)多少寛容になれる。

でもそれが障害を抱えているワケでもなく、本当の暴れん坊でわがままな困ったちゃんだったら?

そこにも寛容になれるの?

正直自分は無理かな・・・

さてここで

障害を考える時に「個人モデル」と「社会モデル」という考え方があります。

以下、拙い私なりの理解力に基づいた説明。

「個人モデル」というのは、障害の問題は障害者が抱える障害そのもの、そしてそれを持つ、その

本人個人にあるとする考え方、だからその障害に起因する生活上の不便や制限(差別もなのか?)

を軽減するにはその障害を治療するか(だから「医療モデル」とも)克服するか諦める必要があると。

原因は障害者個人にあるという考え。

それに対して「社会モデル」というのは障害を障害たらしめているのはその障害そのものや障害者

個人ではなく、その本人を取り巻く環境、社会側に彼ら彼女らを受け入れる体制が整っていないが

為に存在する各種障壁であって、それによってもたらされてしまう各種困難な状況を障害だとする

考え方。

原因は社会の側にあるという考え。

例えば、

全ての住民が手話を使って会話をするという社会があったとしたら、そこでは、たとえ耳が聞こえず、

言葉が発せられないという身体機能での欠損を抱えていたとしても、手話さえ使えれば生活に支障は

なく、特異な存在としての烙印を押される事もなく、すなわち障害がある状態とはいえない。

逆に、いくら耳が聞こえ言葉を発する事が出来ても、手話が使えない人々にとってはそのような

社会ではその持っている機能は手話ほど重要な意味をなさない為に、かれらこそその社会では生き

にくい障害を抱えている、というのが「社会モデル」の考え方。

実際は音が聞こえない世界で不便を感じるのは人間同士のコミュニケーションの上だけではないだろう

から、手話さえ出来ればOKという話にはならないと思いますが。。。

(ちなみに実際に外国でこのような島が存在したという話を読んだ事がある気がします)

現在は障害者権利条約にも反映されているように「社会モデル」での障害の捉え方が世界の

スタンダードになってきているようで、それは日本でも主流になりつつあるようですね。

それはごく自然で望ましい事だと私は考えていますが、全体主義を喜んで受け入れながらいざと

なると自己責任論を持ち出す人も多い近頃の日本で、これを隅々まで定着させるのはそう簡単

な事ではないだろうなと思ったり。。。

とはいえ、つい先日には「障害者差別解消法」も施行されて、全体的に良い方向に向かっているん

だろうという気はしている。

見た目に障害者だとわかりやすい人たちを受け入れる動きは世の中でゆっくりでも高まっている。

そしてそれらの活動は見た目にもわかりやすく、だから周囲へのアピールとしてうってつけの

材料ともなるので尚の事進んでいくでしょう。

それはそれで素晴らしい事だと思います。

否定する気はまったくありません。

ましてや、だから障害でもわかりやすい身体の方たちっていいよね、なんて事は思いません。

でも、さっき感じた小さな気持ちの悪さは、一見そうとはわかりにくい人たちは

「私は(この子は)障害者です」というプレートをこれからも下げ続けないとならないのだろう

なということからかな。

新しい方向を示した「社会モデル」でもそういう目で見てみると漏れている視点があるのでは

ないかな。

そこから漏れている人たちがいるだろうなと。

ここまで書いておきながら私自身どうすべきか、何が正しいのか、見つけても持ててもいません。

そもそもこのモヤモヤがモヤモヤする程のことなのか⁈とも。

マジェルカは入り口をスロープにしてはいますが、見た目にはわからない障害を抱えた方にどう接する

のが良いのかを今はまだよく知りません。

そんな今日もマジェルカには発達障害を抱えているという方が来られてお話をする機会がありました。

その時もそんなモヤモヤが頭の片隅に。

ただ、こういう、色々な人が色々な思い(その内には様々な期待も)を抱いて来てくれるような場を

持ってしまった。

この“しまった”というのは後悔の意味でなく、当初の意図としてではなく、マジェルカの活動の中で

結果としてそうなっていたという意味。

だからこれからもこれまで通りではなく、自分の考えに依ってだけでなく、常に取り入れて考えて

このマジェルカを常にアップデートしていかなければならないのだろうなと思っています。

とりとめが無くなりました。

「長い!」というツッコミがまた入るかもしれませんので最後にします。

ご案内です。

秋頃からマジェルカで働いてくださる方を募集しています。

きちんとしかるべき場所にも掲載して募集をかけるつもりですがまずはここで先行して。

今回はアルバイトではなく正規スタッフの募集です。

障害者支援の現場経験があり、なおかつサービス管理責任者の資格を持っている方を求めています。

勘のいい方なら分かるでしょうがマジェルカの大きなアップデートに伴う募集です。

詳しいお話は個別にお会いしてお話しをしたいと考えていますので、このスタッフ募集に関してご興味の

ある方は fujimoto@localhost までご連絡を。

冒頭の質問会にご参加頂くってのもありです。

ではでは。

 

目次