神の汚れた手
kmです。
読んだ本をご紹介したいと思います。
曽野綾子著 (朝日新聞社・1979年)
『神の汚れた手』(上・下) です。
著者を私は存じ上げなかったのでこの本を注文してから届くまでの間にどういう方なのか調べてみたところ、幼稚園から大学までカトリックの学校に通われていた方との事でした。本の注文はしたものの、内容が宗教色の濃すぎるお説教のようだったらどうしよう、上下巻ある量を根気よく最後まで読めるかなと少し不安でした。
しかし読み始めてみると払拭されていきました。
三浦半島の海の近くで産婦人科を開業している野辺地貞春(のべじさだはる)。
彼の元には出産・中絶などの為に様々な事情を抱えた患者が訪れます。
金銭的な問題で中絶を望む人、長年不妊に悩む夫婦、未成年という理由で親に中絶の為に連れてこられる少女、胎児に障害がある事が判明した為に中絶を望む人、養子を望みながらも赤ん坊に障害がある事が分かると辞退する夫婦、逆に赤ん坊に障害があるからこそ幸せにする甲斐があると養子縁組を望む夫婦。
そんな患者達に淡々と向き合う野辺地医師。
『命の価値』と『人間の尊厳』を問いかけてくる物語です。
倫理や道徳というものは正しさや人間がより良く暮らしていくためのものであるはずです。
しかし短絡的に二元論で人間の姿勢を決めきってしまう事は出来ないんだなと改めて感じました。
人にはそれぞれ事情や生活があり、それに基づく答えは他人には測れません。
世の中には解決できない事、やりきれない事の方が多いのかもしれません。
こぼれ落ちるもののほうが多く、それに対しては祈る事や願う事しか出来ない気がします。
本編中に野辺地医師、友人の女性、神父の三人でお酒を飲みながら話す場面が複数あります。中盤での医師の言葉をご紹介します。一部の抜粋ですが良さが伝わると嬉しいです。
「人間社会というものはすべて《こみ》なんだよ。《こみ》の美しさだよ。
オーケストラですよ。ソロじゃないんだ。オーケストラだから壮大で豪快でみごとなんだ。」
私自身、障害を持った方のご家族とお会いした際に言葉を交わさなくともしなやかな強さや静かで深い愛情の空気をなんとなくですが感じる事がたまにあります。そういう方々はきっと一言では言い表せない道のりを歩んで来られたのだろうな、そしてゆっくりでも確かな足取りでこれからも仲良く楽しくシンフォニックな鼻歌まじりに道を歩んで行かれるんだろうな、読み終えた時にふと思えた事です。
詳細は伏せますがラストシーン最後3行に私は完全にやられました。
あとがきから著者の言葉をご紹介して終わりにしたいと思います。
私の作品の中に、宗教小説の系列があるが、私は宗教的な問題を、できるだけ「神」「教会」「キリシタン」「殉教」などという生のイメージから離し、いわば「普通の人々の中に歩き出し、一体化した」神を、さりげなく書くことを念願として来たが、今回も大体はその線にそって作品を組み立てることができたように思う。