歌舞伎揚げ
歌舞伎揚げって美味しいですよね。
歌舞伎揚げを見ると、いつも学生時代のバイトを思い出します。
建築現場でずいぶん長いことバイト
していました。
みなさん石膏ボードって知ってます?
建物の壁や天井に貼られている不燃材です。
普通は上から壁紙貼られたりペンキ塗られたりするので直接目に触れなくても、100%皆さんの身の廻りにあるモノです。
その石膏ボードを貼る職人をやっていました。
その親方が休憩時間になると必ずオヤツに歌舞伎揚げを出してくれた、というより買いに行かされてたんですね。
現場仕事って体力の消耗が激しいので休憩ごとに水分の他に何か腹に入れないととても持たないんです。
夏なんかはカップのカキ氷にコーラ注いでかき込んで熱さをしのいでた。
そんな休憩時にチョッピリ甘くてバリボリ食べごたえある歌舞伎揚げは確かにぴったりでした。
そのボード屋はいわゆる一人親方っていって、自宅を事務所に、事務などは奥さんがやって従業員は基本抱えないでやってる個人事業でした。
私は大学生だからバイトでしたが、他にもたまに学生バイトや正規じゃない(たぶん)職人が入れ替わり立ち代わりで色んな現場をこなしていました。
結構でかい現場にも入りました。
いずれは沢山の人間が賑やかに行き交うだろう場がだんだん出来上がっていくのを見るのは楽しくもありました。
夕方、ガランとした建築現場の中から見る夜景は綺麗なもんで、ヘタなデートスポットよりもよっぽどロマンチックでしたよ。
今は少なくなりましたが、その頃は海外からの出稼ぎ組も多くて、日系ブラジル人やイラン人とも一緒に働きました。
ラテンなんですよね、日系ブラジリアン(笑)
ロクに学校にも行かずにバイトしてたので、現場のゼネコンの鹿○組の監督とかは私の事を普通に職人だと思っていて、何か伝達事項がある時に親方がいないと、日本語がマトモに通じない彼らじゃなくて私に指示してくるんです。
で、わたしが「田中さん(彼らの日本での呼び名)、監督がコレまずいから直せってさぁ」とか言ってもニコニコしながら「タイジョブ、タイジョブ!」(肩バンバン!)みたいな…
あとは、
わたしにしきりに「フジモト、おまえイイ奴だから一緒にブラジル行こう!」(肩バンバン!)
「あっちではエメラルドたくさん採れるからさ」
ホントかよ?
じゅあ日本来んなよっ!(゚д゚lll)
イラク人はホントに当時の東京には溢れていて、上野駅などでは「ジューマイセンエ~ン」とか言って偽造テレホンカード売ってたりいかがわしいのもいたので一般市民からはチョッピリ敬遠されてたところもあるのですが、一緒に働いた彼は故郷の奥さんと子供の写真を見せてくれて、頑張って早く帰りたい、と。
なんでも向こうでは大学を出て研究の仕事をしていたそうで。
そんな時代でした。
親方って人がまた面白い人で当時世界を賑わせていたサダムフセインにソックリなんですが、軽のワゴン車のカーステレオからはガラにもなくいつも井上陽水。
沖縄から若い頃に上京して、歌手を目指した頃もあり、井上陽水のラジオ番組にテープを送って取り上げてもらえたとか。
勉強したくて早○田大学の講義に潜り込んでたとか。
そんな時代だったんですね。
毎晩の様に飲みに連れて行ってくれました。
いつもだいたい二人。
今では珍しくないし一種シャレオツ感もある立ち飲み屋ですが、
その頃の立ち飲み屋は大人な、といってもチョッピリ裏道街道な感じの大人スポット。
間違ってもスーツのサラリーマンとかいないし。
何煮てるのかわからないモツ煮の食い終わった骨やタバコの吸殻とか捨てるのダイレクトに床だし。
現場での一時間の昼休みはとっとと食事を終わらせて、積んである資材の上で一眠りするのですが、ある日目が覚めたら14時過ぎ、当然まわりはみんな働いてます。
親方いわく、「起こしても起きなかったからそのままにしといた。」
そんな親方からずっと一緒にやろうって言われ、その頃、学校に行く意味も曖昧になっていたわたしが母親に相談したら「バカ言ってんじゃない!」って。
そりゃそうだ、苦労して学校行かせたのにモツ煮食った勢いで職人になるだなんてねぇ。
そういえば関係ないけど「戦闘機が~買える位のはした金~ならいらな~い♪」ってブルーハーツの唄を大声で歌った時も「バカ言ってんじゃない!」って言われたなぁ。
関係ないけど。
あまりに学校に行かないから、
その頃学校で仲良くしてた子には
「本当に学校辞めたと思った…」
なんて言われたり。
もしあの時ホントに職人になってたら今頃どうしてるんだろう。
なんて考えても意味がないけど思ってしまう雨の午後。
なんだよ、歌舞伎揚げ!
おセンチにさせんなよ!