支援?
昨日は休みだったのでノンビリと起き出して、というより前日に愉快ですごい人達とかなり遅くまで飲んでいたので起きられず、起きてからも家で昼近くまでダラダラと過ごしてから昼食がてら外出。
向かった先はマジェルカでもおなじみ(?)クラフト工房ラ・まのさん。
町田という場所にあるラ・まのへは我が家からだと車で30分程度で行けてしまいます。
近い事もあって染色や手織り、刺繍といったモノ作りをしているラ・まのさんへは今までもたまに直接お邪魔して、その時そこにあるモノの中からセレクトして仕入れさせてもらっていました。
また、こちらでは山の中にある築100年近くになる民家を工房にして活動しているのですが、その場が好きなのでちょくちょくお邪魔しているというのもあります。
あとはちょっとご相談したいこともあったりして。
おかげでちょっといいモノ入りましたよ♪
そして今回は先日お知らせしたTシャツも引き取ってきました^_^
商品の準備をして頂いている間、ちょっと庭に出てブラブラしていると、メンバーさんが
帰る時間になっていたので送迎車に向かう人、バスで帰る人、皆さん三三五五出て行きます。
ひとしきり皆居なくなったのに、さっきから玄関で一人待っていた体の小さな女の子の
(という表現をしたくなりましたが正しくは女の子ではなく女性ですね)利用者さんの元に
体の大きな利用者の男の子(やはりこちらも正しくは男性)が「お待たせ~っ!」と体と
同じくとても大きな声で登場。
眺めていると彼が彼女の手を引いて歩いて帰って行きました。
おそらく帰る方向が同じなので一緒に帰るのでしょうかね。
その時ふと、前日にマジェルカを訪ねてこられた、ある福祉事業所の若いリーダーの方
との会話を思い出しました。
「利用者さんというのは職員の側が支援していると考えているほど支援されているという
感覚はあるものなのでしょうか?」と私。
それに対してその方は
「いいえ、そんなに思っていないと思いますよ。見ていても彼らはよっぽど自立していて
自分たちの事は自分たちでやっていますよ。」
と。
これには当然個人差もあるし、色んな見方や意見もあるかと思います。
そもそも何故そんな会話になったかというと、
福祉の現場で日々行われている支援という名の活動は一体誰の為なのかという話から。
彼の為と言いながらも本当は自分の為であったりする場合もないのか、と。
であれば自分の為でもある事を理解し意識するべきでは、と。
彼ら障害者がいるお蔭で自分たちの働く場、生きる場も得られているとも言えるのでは、と。
こんな言い方が正しいのかわかりませんが“生かし、生かされている”といえないのか、と。
(これは障害者と直接向かい合う現場で支援に関わる方だけではなくて、私も一種その
立場とも言われていますが、施設や職員を外部からフォローするような役割を担っている
中間支援と呼ばれる者たちにも同じ事だと思っています)
そんなこんながあった翌日の今日、マジェルカに一通の手紙が届きました。
手紙の主は先日遠路はるばるマジェルカに来てくれた施設職員の方。
でもある思いから近々辞めてしまわれるというお話でした。
手紙には、
障害のある彼らに教えられる事はたくさんあるけれど、自分が逆に教える事が出来る事は
ないと。
そしてそんな自分の「支援員」という肩書に息苦しさを感じていたと。
でも、マジェルカに来て私と色々な話をしているうちに、もっと自分でもやれる事はあった
のかもしれないと感じ、辞める事を少し後悔しているというような事も
その事業所がどんな考えの元にどんな活動をしているのか、利用者さんとの関わり方が
どうなのかも、そのお手紙の主さんがそこでどのような事をされていたのかも詳しくは
知りません。
もちろん辞めてしまうことが良かったのか、辞めないべきだったのかも言えません。
でも、彼らに生かされていると感じられるそんな彼女だからこそ出来る支援はあったの
かもしれません。
支援ってなんなんでしょう・・・
彼女の手紙にはこうも書かれていました。
「困っている相手に手を差し伸べるのに障害の有無は関係ないのではないか・・・」と。
きっとまた別の新しいフィールドで活躍してくれればいいとは思います。
おやすみなさい。